実験映画のように、いろいろな新しい手法をまた、濱口監督はこの映画で提示する。彼にとって、映画はまだまだ無限の可能性に満ちているよう。スタートに始まる永遠のように続く、森の松を下から見上げる映像は圧巻。まだ続くのか?いったいストーリーがこの映画にはあるのか?と、観客が思い始めるほど長い。だがその長さ故に、観客はその環境の中に「無理やり」引きずり込まれ、映画の登場人物の一人になる。ないしは、非常に近い距離で、そこで起こる出来事を見つめる羽目になる。映画の中に、完全に引き込まれたのだ。この、通常とは違うゆっくりとした時間の使い方が濱口監督の魔法の杖の一つだ。
この松の木々は、亡くなった娘の花を抱えた父・巧が映画の最後で見た風景か?娘の花がいつも見ていた風景か?ないしは、二人の心象風景か?ただ一つはっきりしているのは、とてつもない不安感を想起する松の木々の流れなのである。
このように濱口監督は、登場人物の見つめた風景・映像をその時の感情を表すように、つないで見せる。ほかの例に、巧が学校に花を迎えに行くシーンがある。花は、いつもお迎えの時間を忘れる父にうんざりして、「一人で歩いて帰った」と学校の先生が言う。その言葉を先生の口から聞く前に、放課後の校庭で遊ぶ子どもたちの中に花を見つけようと焦る巧の気持ちを映すかのように撮られた子どもたちの映像。または、花は一人で帰ったと言った後に先生がのんきそうに隣の父兄と笑談する映像は、巧が見た風景なのだが、それがそのまま巧の焦り・不安を表している。森でいなくなった花の捜索に参加した村の青年。階段上に造られた細い水路を流れていく水を追うシーンが突然現れるが、その水を追うスピードある映像は、実はその青年が不安に駆られて走りながら見ている風景であり、同時にその青年の心の動揺を映す水の速さでもある。
感情を表現するのは、映像だけではない。音楽、石橋英子の即興のような素晴らしい音の流れも、感情を表現する。花の捜索に参加した人々。彼らが不安な気持ちで見つめる森の風景。低い位置の木々や雪が覆った笹の葉。そうした捜索中に人が見つめる不安感を表す映像に、石橋の「音」がやはり不安感を表すように美しく流れる。映像の流れるスピードと音のリズムのスピードがこれほど快く合わさった映像・音を私は知らない。それだけで、一つの完成した芸術作品のよう。
これらだけでも十分に濱口監督のさまざまな魔法の杖に驚かされるのだが、それに加え、濱口監督独自の「演劇の空間」がまた違う次元をこの映画にはつけ加えられる。車の中で語られる男女の会話は、それだけで今の日本の社会を映し出す小さな演劇。グランピング計画の説明会は、様々な発言が鋭く深く絡みあい、一つの演劇空間の創造。そして巧の喋り方。「そこは鹿の通り道だ」と「だ」で終わり、まるで神の言葉のように修飾語が語尾につかない。「そこは鹿の通り道なので、よくないと思います」と、普通の人のようには言わない。だから、彼は完全に浮いていて、その体の動かし方と重なって、「森に住む精霊かも知れない…」と思わせる。
そうして最後の魔法の杖は、グランピング計画実行のため、東京から来た青年を巧が殺すシーン。なぜ?これは、タイトルが示すように悪ではないのか?鹿が花を殺したのも悪ではなかったからと言いたいのか?などと、観客は多くの疑問を抱えながら映画館を去り、その後何回もこの疑問を反芻する羽目になる。これほど、現実の生活に入り込んでくる映画もあまりない。なぜなら普通は、監督が提示したいテーマはほぼ映画の中で完結している場合が多いから。こうして、この映画は「完結させたいと思っていない映画」ないしは、「完結することは映画の役割ではない」ということを観客に示す「魔法の杖」を最後にも振っている。
02.2025 KSS