白黒の道に立つセメントの塀を上から写す。まるで主役のジャンヌ・モローがそれを見ているように。ついで、彼女がその塀の間をくねくねと歩いていくのだが、途中にアイスクリームを食べている老婆がいて、彼女もモローに気をとめるでもなく、モローも声をかける訳でもない。不思議な映像。

 

廃墟のような場所。線路に草が生えているところが大写しされたり。子供が泣いていたり。見捨てられた場所の壁の剥がれそうなところをモローが手で剥がし取ったり。なぜこのような映像がインサートされるのか?

 

モニカ・ヴィッティが窓を背景に立った時、顔半分が影になっていたり。まるで、イタリアの画家ジョルジュ・デ・キリコの影の絵のようだ。イタリア人独特の影の使い方なのだろうか?

 

雨が、それも大雨がシャワーのように降る中を車がいく。車内では、モローの夫・マルチェロ・マストロヤンニが面白そうに、夜の半分酔ったような気分の中で話している。カメラはそれを追うのだが、あまりに雨がざあざあ降りなので、二人の影しか見えないぐらいだ。あんな雨の、水の材質感を映像にした監督を知らない。なんなのだろうか?なぜ、ああいう撮り方なのか?

 

水といえば、プールの水、噴水の水など、水が綺麗に映され、水のせいで、水があるからこんな風に人はなるのだ、話は進むのだ、みたいなことを考えさせられる。では、車の外のざあざあ降りの水は、車内の2人とどう絡むのか…?

 

病室にいて、突然鳴り響くヘリコプターの音。それを追う病室内の人々。死が近い友人と、そのことを知っている訪問客が全員、重苦しい空気の中で、そのヘリコプターを見る。なんなのか?なぜヘリコプターが使われるのか?

 

とにかく、不思議さに満ちていて、それでいて美しい映像の重なりとで、人が生きるということの「重さ」を、美しい環境の中で描く。ここで美しいというのは、豪華な客室とかそういう美しさではなく、ミラノの郊外の荒地とかが映されるのだから、物自体が美しいのではなく、美しい白黒のバランスで写しとられるアントニオーニの美意識による美しさの中で、人生が描かれるということだ。

 

ただ「人生が描かれる」とは言え、何か重大な出来事が起こる訳ではない。愛の冷めた40代の夫婦の倦怠感と、友人が亡くなることがしいていえば話しだ。妻は、夫に新しい恋人を勧めたりするのだから。だが、その金持ちの若い令嬢、飛び抜けて美しい彼女とも、うまくいくかというとそうではない。夜の、夜の魔性に酔った一瞬の恋にすぎない。

 

その意味では(出来事を追うのではないという意味では)、小津の『晩秋』などに似ているかもしれない。しかし、『晩秋』では、無駄な?ないしは、インサートされる理由がわかりにくい映像はない。例えば、最後のリンゴの皮が長く垂れていくシーンは、取り残された父親の悲しみの表現のために使われる。だが、アントニオーニにおいては、廃墟の線路に生えている草とか、道路脇の小さな柱の列を見せることは、何を意図しているのか?

 

近代建築が好きなことはわかる気がする。病院の入り口は美しいし、そのほかのビルも美しく、撮影される。

 

とにかくこれほど気になり、わからなく、それでいて惹かれる映画は珍しい。白黒の美しいシーンが漂う水の中に居続けるような。